Re: 『三国志』についての考察、感想 ( No.13 ) |
- 日時: 2021/06/14 19:15
- 名前: Ryu
- 孫峻について、どうしても孫チンと混合して同じ様な奴扱いされがちですが、少なくとも業績(?)的には孫チンより遥かに上で良い所無しの無能、とも言えない感じが。
(まあやった事を考えると、間違いなく悪臣の類でしょうが)
宴会の途中で諸葛恪を粛清した際には自分で彼を斬っただけでなく、床とかを掃除させた上で宴会を続けたなんてエピソードがあったり。
ただ数年後その諸葛恪に夢で殴られてから、病に罹り同年の内に病死したという、結局度胸が有るのか無いのかどっちなんだというエピソードもありますが。
尚これについて、陳寿が三国志を執筆するに当たって呉に関しては、呉の韋昭が執筆した「呉書」を参考にしているのが影響しているとか。
韋昭は孫峻によって死に追いやられた孫和に仕えていた事、そしてその孫和の子である孫晧の意向もあって、孫峻についてディスる様な紹介を入れたのだとも。
|
Re: 『三国志』についての考察、感想 ( No.14 ) |
- 日時: 2021/06/14 20:35
- 名前: JIN
- あの二人は従兄弟だそうですが、どういう感じで権力継承したかも気になりますね。
やはり親衛隊が基盤なのか。
魏の司馬兄弟について、司馬師から司馬昭への権力継承は結構際どい感じで描かれていますが。
|
Re: 『三国志』についての考察、感想 ( No.15 ) |
- 日時: 2021/06/15 19:46
- 名前: Ryu
- 孫峻が自身の後任に孫チンを指名した理由はイマイチわからないかなと。
孫チンの前歴は孫亮の時代に偏将軍(将軍としては最下層)に任命されたとあるだけで、とにかく孫峻存命中の孫チンは何をしていたのか、どういう立場だったのか、孫峻とは親密だったのかという記録も無いし。
ただ一つ確定している事は、孫チンは孫峻がまだマシに思えてしまえる程の悪臣っぷりを発揮した事ぐらいでしょうか。
|
Re: 『三国志』についての考察、感想 ( No.16 ) |
- 日時: 2021/06/15 20:49
- 名前: JIN
- あるいは一族内部に二人をつなぐフィクサーがいたかって感じですよね。
孫亮を追放した孫チンが孫休にあっさりやられたのも何がしかの裏を感じてしまうところですが。
後漢中期から物語を始めてる宮城谷版では、孫チンを「跋扈将軍」梁冀とオーバーラップさせる感じに描いてました。
(彼の横暴に憤った孫亮が「朕にも宦官が欲しい」と吐露したり)
|
Re: 『三国志』についての考察、感想 ( No.17 ) |
- 日時: 2021/06/16 08:27
- 名前: Ryu
- 結局孫亮に曹騰みたいな存在は現れず、孫晧の時代になって岑昏みたいなのが君主の傍に侍る様になったのは何とも。
(まあ岑昏が宦官というのは演義の設定なんですが)
しかし後漢中期から物語が始まっている宮城谷版ですか。今度機会があれば読んでみようと思います。
黄巾の乱以前の物語は、梁冀が幼帝を毒殺したとか、結局一族皆殺しに遭ったとか、霊帝が売官行為を行ったとか漫然とした事しか知らなかったもので。
|
Re: 『三国志』についての考察、感想 ( No.18 ) |
- 日時: 2021/06/16 23:25
- 名前: JlN
- 分量的には最初の二巻分だけなので気楽に読めます。
それこそ曹騰が初めて宮中に入った頃から描かなければ、曹操も三国志も真に理解できないって感じでしょうか。
(考えてみれば、死後の追贈とはいえ中国史上における唯一の宦官皇帝なんですよね)
自分として特にお勧めなのは、皇帝になりそこなった清河王のエピソード。
あれこそ正に「軽視は禁物」の代表例なだけに。
|
Re: 『三国志』についての考察、感想 ( No.19 ) |
- 日時: 2021/06/16 23:21
- 名前: JIN
- 岑昏の宦官設定については、蜀における黄皓と対比させる意味もありそうですよね。
あと諸葛亮の息子である諸葛瞻も黄皓と協調的で姜維とは対立していたと言われますね。
ただし父親の功績と、最後に息子と壮絶な戦死を遂げた事によって後世の批判を免れている感じで。
|
Re: 『三国志』についての考察、感想 ( No.20 ) |
- 日時: 2021/06/17 15:39
- 名前: Ryu
- 蜀末期の蜀陣営への批判については、演義(ないしそれベースの物語)での印象から「劉禅がアホだった」「黄皓がクズだった」「姜維が無謀だった」とか何とか言われる事が多い一方で、諸葛瞻については特に言われる事は少ないですからね。
ただ正史についても一般的に知られる様になった昨今、諸葛瞻の行動についても注目されて結果批判される様になってしまったり。
演義では黄皓に反発して病気と称して家に籠っており(それはそれでどうなのかとも思いますが)、姜維が防戦していた剣閣の裏側の江油城が昜によって陥落(というかさっさと降伏)した時、諸葛瞻は一切関与していないという設定。
しかし正史だと劉禅の命で出撃するも、一箇所に留まって戦況を伺うのみで、積極的に迎撃しなかった事を黄崇から批判されるという。
(しかも黄崇は涙を流しながらも出撃を請うがそれを受け入れず、結果江油城が陥落してしまう…といった描写や結果から、やらかしたという印象を与えがち)
|
Re: 『三国志』についての考察、感想 ( No.21 ) |
- 日時: 2021/06/17 21:44
- 名前: JIN
- 蜀の滅亡と一番対比されるのは、やはり前の益州の主であった、劉璋の降伏ですよね。
むしろ劉璋の時こそ官民が徹底抗戦の構えだったとされるなど、あちらの方が上という見方も出来る。
実際、劉備の入蜀については、後世の蜀正統論でも正当化が難しかったらしく、その完成者にして諸葛亮信者でもある、南宋の朱熹は(隆中対を無視して)「あれは劉備の独断で諸葛亮は知らなかった」と強弁せざるを得なくなっている。
ここで面白いのは、名誉を救うべきは主君である劉備でなく臣下のはずの諸葛亮の方になっているという点で、こうした姿勢がまた朱熹が当時の政権に嫌われた一面にもなっていそう。
|
Re: 『三国志』についての考察、感想 ( No.22 ) |
- 日時: 2021/06/21 09:24
- 名前: Ryu
- 劉璋の時代は、地元豪族の力が強くそして連中からすれば、何で劉備を迎えなければならないんだと言った感じだった所ですかね。
実際最初から劉備に協力的だった(というか彼が劉璋に取って変わる事を望んでいた)法正や孟達は、益州外部からの出身で当時の劉璋政権では非主流派だったでしょうし。
彼の父の劉焉は演義では序盤にチョイ役で出る程度の印象でしたが、実際はかなりの野心家かつ辣腕の持ち主だった模様。
黄巾の乱の後に、彼が益州刺史に任命されてから劉備の入蜀までの益州の様子は軽く飛ばされてますが、調べると結構色々な事があったり。
|